
今回は、RPGゲームでいう“はじまりの村”にあたる——
切り花フェーズについて話していこうと思います。
このフェーズをひとことで言うなら、100%依存フェーズ。
切り花って、とても美しいですよね。
お花屋さんに並ぶときには、もう完成形として飾られていて、見る人を癒したり、空間を華やかにしたりする。
でも、脳トレカレッジの植物モデルでは、この“切り花”の状態を「人生のスタート地点」として捉えています。
私たちは誰もが、“おぎゃー!”と産声をあげた瞬間から、この世界での冒険をスタートさせます。
今どんなにしっかりした大人でも、生まれたばかりの頃は、何ひとつ自分でできなかったわけで。
ミルクも飲めない、歩けない、しゃべれない。
ありとあらゆるものを垂れ流しながら(www)その全部を周りの人にお世話してもらって、生き延びてきたわけです。
誰もが通る、完全なる依存のフェーズ。
生まれて数日、誰も世話してくれなかったら死んでしまう。
「世界に委ねる」以外にできることがない状態。
それを象徴的に表しているのが、花瓶の中の切り花です。
花瓶と水=生まれ育った環境
では、なぜ「生まれたばかりの状態」を“花瓶に入った切り花”として表現しているのか?というと、花瓶=私たちの生まれ育った環境そのものを指します。
たとえば家庭、学校、地域、そして社会。
もっと大きく言えば「日本」という国全体もその一部です。
そして、その花瓶に注がれた水が、私たちを取り巻いていた養育環境の質を表しています。
花瓶の形が多少違っても、花が元気に咲けるかどうかを決めるのは、結局「水の質」なんですよね。
どんな言葉を浴びて育ったのか。
どんな人たちに囲まれていたのか。
どんな愛し方をされ、どんなふうに見守られたのか。
それがすべて、水として花に吸い上げられ、今の“私”というかたちをつくっていく。
三つ子の魂百まで、なんて諺もありますが「与えられたものを、疑いもなく、ただ吸って切り花として存在している」この状態から私たちの人生はスタートします。
花瓶の水で、花の色は変わる

ちなみに小学校の理科で「白いカーネーションを赤い色水と青い色水に分けて挿す実験」をしたことがある人、いらっしゃいますか?
(私の学校ではあったのですが、何人かに聞いたら知らない人もいたので全国じゃないのかな?)
一応、やったことない人用に補足すると、(カーネーションじゃなくてもいいのですが)白いお花を色水に差して数日待つと、白だった花びらが色水と同じになるんですよ。
時間が経つと、白い花びらがその水の色に染まっていく。
赤い水なら赤く、青い水なら青く。
生まれたときの私たちは、真っ白なカーネーションのように“どんな色にも染まれる”状態。
でも、その花瓶の水が赤ければ赤く、青ければ青く、少しずつ染まっていく。
完全に一色に染まるわけではなくて、赤いけれど少し白が残っているとか、青いけれど透明な部分があるとか。
それはまるで、「環境に染まりながらも、本来の自分はどこかに残っている」人の姿そのものです。
ちなみにリアルな実験の話ですが、切り花の茎を3等分して、それぞれ違う色水につけると、1つの花が3色になります。

“お水の履歴”を読み解くということ
よく「恋愛にトラブルがある人は、家庭環境に問題がある」なんて心理学で言われたりしてますが、これは「花びらが変な色になってる(=現実でトラブルが起きてる)」ってことは、「家庭環境(=育った水)」に原因がきっとあるよね?という、“花瓶の水”の履歴をたどる作業でもあります。
赤い水で育った人、青い水で育った人、あるいは何度も水を入れ替えられてきた人。
茎・葉・花びらには“水の履歴”が残っているわけですから、そこにあるバグを探していこう、という感じかなと思います。
切り花フェーズの世界観|世界は私をケアしてくれる存在
では切り花フェーズにいる人たち(物理的にも精神的にも)は、どのような価値観で世界を見ているのでしょうか?
一言で言うと「世界の中心は自分。そして世界は私をケアしてくれる存在」みたいな感覚で生きています。
まぁそりゃそうですよね。
生後数ヶ月の赤ちゃんが「世界の中心はどこかの偉い人で、自分は節度を持って振る舞わないと…」なんて思ってるわけがないw(そんな赤ちゃん嫌だ)
この「世界は私を助けてくれる」「私を愛してくれる」「私を見守ってくれる」という感覚は、根本的にはとても健全なものです。
それは“世界への信頼”そのものですからね。
そして、この依存フェーズの意識というのは、体が成長した後も、精神が徐々に大人になってきても、無意識のどこかでは消えずに残っています。
特に、花瓶の水――つまり養育環境――の質が良かった人ほど、この信頼感は強くて
「世界は優しくて、愛してくれて、私の願いをちゃんと聞いてくれる(そうであるべきだ)」
という概念を心の底に持っています。
いわゆる女性性が豊かなタイプで、素直で、受け取るのが上手。
この段階の人は、周囲から見るととても可愛らしく、愛されやすい印象を持っています。
与えられることを自然に許せる人で、世界との関係に「甘え」を許している人です。
可愛さの裏にある“当たり前意識”
花瓶の水の状態が良かった人(依存フェーズを謳歌した人)ほど、世界に対して安心して委ねることができて、安心し切っていて…素晴らしいことではあるのですが、物事には全て2面性があるもので。
栄養たっぷりの美味しい水で育った人ほど「世界は私をケアして当然」「サポートしてくれて当たり前」という前提が、無意識に根づいてしまいやすいこと。
つまり、愛されること・与えられることが“前提条件”になっているんです。
なので、育っていく過程で世界(=相手)が自分の思うように愛してくれなかったり、ケアしてくれなかったりすると、心の中
「なんで?」「どうして?」
と強く反応してしまう。
悲しみより先に、怒りや絶望が出てくる。
「どうして私のことを思い通りに愛してくれないの?」
「なんで私の期待どおりに動いてくれないの?」
これが、切り花フェーズ特有の“ニーズの強さ”です。
生存本能とニーズは繋がっている
切り花フェーズの特徴のひとつ、**“ニーズ(欲求)の強さ”**ですが「欲しい」「もっとちょうだい」「私の思い通りにして」という感覚が、とにかく強く出やすいんですね。
自己啓発やスピリチュアルの世界では、よく「くれくれちゃん」という言葉で揶揄されることがあります。
「あなた、くれくれちゃんになってませんか?」とか、
「くれくれちゃんとは距離をとりましょう」みたいなフレーズ。
たとえばこんなフィクションを想像してみてください。
隣の奥さんが「ゴミ袋がないの」と言うから、一枚貸してあげた。
翌週も「また袋がなくて」と言うので、もう一枚。
さらにその翌週も同じことを言ってきた。
気づけば三枚貸しているのに、まだ返ってこない。
さすがに「この前の分、まだ返ってきてないよ」と言うと、「なによケチね、ゴミ袋くらいくれたっていいじゃない!」と逆ギレ。
──完全にフィクションですが(笑)、
こういう人、たまにいますよね。
この「くれくれ」的な振る舞いの根っこにあるのが、生存本能とニーズの直結構造です。
赤ちゃんがミルクをもらえなかったら、リアルに死んでしまう。
ミルクをもらえたら生き延びられる。
その経験が心の奥に深く刻まれているから、切り花フェーズの意識では、
「もらえない=死ぬ」「もらえる=生きられる」
という方程式が、無意識の中でずっと動いているんです。
このフェーズの人は、たとえ身体は大人になっていても、心のどこかにこの構造が残っています。
たとえば恋愛で「なんで連絡くれないの?」「私のこと見てくれないの?」
親子関係で「どうして褒めてくれなかったの?」「私ばかり我慢してる」
職場で「もっとサポートしてほしい」「ちゃんと評価してほしい」
すべて根っこは同じ。
生存本能が、「愛されない=存在が危うい」と反応している。
そしてそれは、決して“わがまま”ではなく、「かつて満たされなかった生の名残」なんです。
恋愛はよく「親子関係の再演」と言われますが、まさにこの構造が関係しています。
かつて「ミルクちょうだい」「抱っこして」と言えなかった声が、「愛して」「かまって」「見て」「好きって言って」という形で、大人になってから恋人に向かう。
切り花フェーズの中にあるニーズの強さは、ただの甘えや依存ではなく、“生きようとする力の名残”なんです。
切り花フェーズにいる人の自己対話と現実パターン
このフェーズにいる人たちは、どんな自己対話をしているか。
どんな言葉が心の中で繰り返されやすいか。
代表的なセリフを挙げると、こんな感じです。
「彼は私を大事にしてくれなかった」
「友達に嘘をつかれた」
「軽く扱われた気がする」
このように、いつも「相手がどうしたか」「世界が自分をどう扱ったか」を中心に語られるのが、切り花フェーズの自己対話の特徴です。
自分から何かをつくるよりも、他者の行動を通して自分の価値を測る。
根っこがない切り花は、周りにある水を吸い上げることしかできないのと同じで、自分の力で現実を創り出す機能はまだ発達していません。
その代わりに——とても綺麗なんです。
たとえ泥水のような環境であっても、完全にみすぼらしい花にはならない。
泥の中でしか咲けない蓮のように、過酷な環境でもどこか美しく、可憐で、世界に癒しややさしさを与える存在です。
この“可愛さ”や“美しさ”が、切り花フェーズの人の大きなギフトでもあります。
切り花フェーズに現れる「依存のかたち」
切り花フェーズの“依存”は、子どもの頃だけに現れるものではありません。
成長して社会に出ても、恋愛をしても、家庭を持っても、形を変えて何度も私たちの中に顔を出します。
1. 子どものケース
いちばんわかりやすいのは、文字どおりの「子ども」です。
「今すぐ抱っこして!」「抱っこしてくれないなら愛してない!」
これはまさに、依存フェーズの正直な自己対話。
お母さんが天ぷらを揚げていようが関係ない。
2歳の子どもにとっては、「世界=自分の気持ち」でしかないからです。
2. 社会人のケース
大人になっても、このフェーズにとどまることがあります。
たとえば新入社員。
「何も教えてもらっていない」
「先輩がケアしてくれない」
「上司が見てくれない」
もちろん職場に課題がある場合もありますが、この状態ではまだ“自分から学びに行く”という意識が育っていません。
「教えてもらうのが当たり前」「助けてもらうのが当然」という前提のまま、世界を“ケアする側”ではなく“ケアされる側”として見ているんですね。
この段階では、世界を「与えてくれる母親」のように捉えてしまう。
つまり、体は大人でも心の構造はまだ“花瓶の中”にいるということです。
3. 恋愛・パートナーシップのケース
恋愛や結婚の場面でも、この依存構造はよく再演されます。
「どうして連絡くれないの?」
「私のことを見てくれない」
「愛してるって言ってほしい」
これらの言葉の奥にあるのは、かつて親に向けていた「抱っこして」「見てて」「好きって言って」のエネルギーです。
つまり、恋愛関係の中で、幼少期の“ミルクちょうだい”が形を変えて出てくる。
相手が自分の期待通りに応えてくれないと、「愛されてない」「裏切られた」と感じてしまう。
でもそれは、相手の問題ではなく——
自分の中にまだ**“もらえないと生きられない”**という恐れが残っているだけなんです。
4. 人生を通して、依存は何度も循環する
依存という構造は、一度抜けたら終わりではありません。
むしろ、人生のステージが変わるたびに、形を変えて現れます。
体が衰え、他人の手を借りるようになる老年期。
介護の現場で見られる「要求が通らないと怒鳴る」「世話して当然だと思っている」ような姿も、実はこの依存フェーズの再演です。
「俺は歩けないんだからお前らが支えるのは当然だろ!」
「医者なんだから治せ!」
そう言っている人の奥にも、かつて満たされなかった“生きるための声”がある。
人間は、成長とともに自立に向かい、
そして老いとともに再び依存へと還っていく。
依存は、恥でも退行でもなく、人生の循環の一部なのです。
与えられた環境で咲ききる——次のフェーズへの呼び水
切り花フェーズの私たちは、花瓶という与えられた環境の中で咲いています。
その花瓶も、水の質も、魂の視点から見れば「自分で選んできたもの」かもしれません。
けれど、地上で生きている私たちはそのことをすっかり忘れてしまう。
「うちの親が」「職場が」「社会が」気づけば、誰かや何かのせいにして、自分で選んだはずの花瓶を批判してしまう。
たとえば子どもは「なんでうちはあの家じゃないの?」と嘆き、
大人になれば「なんでこの会社は給料が低いんだ」「あっちの方がマシだ」と、新橋ガード下の赤ちょうちん屋台で愚痴をこぼす。
その言葉の中には、「自分の根がまだ使えていない」サインが潜んでいます。
切り花フェーズは、“与えられた環境でどこまで咲けるか”を試すステージです。
この時期は、まだ自分で根を張ることはできない。
でも、与えられた水を吸い込み、与えられた光の中で咲くことはできる。
その環境を通して「何を受け取り、何を感じ、どう咲いたか」。
それが次のフェーズ——**“根を張る段階”**へ進むための土台になります。
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