
今回は、植物モデルの第5段階──球根フェーズについてお話しします。
どうでもいい余談から入りますが、最近グループ講座でこの植物モデルを扱うたびに、ホワイトボードに花や根っこの絵をたくさん描くようになりました。
その中で気づいたんです。
球根って、イラストにするのがやたら難しい。
どう描いても、ちょっとお尻っぽくなる。
上手く描けても桃か、ニンニクみたいになる。
というわけで、私は親しみを込めてこの時期のことを「ニンニク期」と呼んでいます。
「え、それ完全に間違ってない?」と思うかもしれませんが、案外そうでもないんです。
だってニンニクって、強い香りを持ちながらも、自分の中でエネルギーをためている存在でしょう?
このフェーズもまさにそう。
外には派手な変化がなくても、自分の香り──つまり自分だけの質感や生命力を、内側でじっくり熟成させている時期なんです。
だから私は、球根期のことを“ニンニク期”と呼んでも差し支えないと思ってます。
(かわいげはないけど、リアリティはある!笑)
ところで、チャットGPTにコラム執筆のため音声入力をしていると、どうしても「球根期」のことを「休魂期」と勝手に誤変換してしまうんですよ。
最初は「また間違えたな」と思っていたんですが、だんだん「いや、これもあながち間違いじゃないかもしれない」と思うようになりました。
魂を休ませる時期。
そう考えると、まさに球根フェーズの本質そのもの。
外に向かう力をいったん休めて、内側の土に潜り、静かに命をためていく──
まるで“魂の冬眠”のような期間なんです。
だから、誤変換もまた象徴的。
「休魂期」、いいじゃないですか。
今日から正式に、私はこの時期を“球根期(休魂期)”と呼ぶことにします。
(いや、呼ばない。ニンニク期だ)
私と再会する季節──魂の静かな呼吸を取り戻す
ということで、本題です。
この球根フェーズを一言で表現するなら、**「“わたし”と再会する時期」**といえるでしょう。
私は普段あまり「魂」という言葉を多用しません。
どうしてもその言葉を使うと、スピリチュアルな印象が強くなって、現実から少し離れてしまう気がするからです。
(なので代わりに“わたし”と一般向けには書いています)
けれど──この時期ばかりは、あえてその言葉を使いたくなります。
なにせ、チャットGPTですら「球根期」を「休魂期」と変換してくるくらいですから。
つまり、ここでは堂々と“魂”という言葉を使っていいのでしょう。
夏の盛り、エゴフラワーの華やかさを経て、自分の意思で、あるいは引きずられるようにして「しおれフェーズ」に入り、やがてたどり着くのがこの球根期です。
ここに入ると、外の世界が一気に静まり返ります。
社会的な成功から遠ざかったり、これまで一緒にいた仲間が離れていったり。
あるいは、自ら縁を切ることもあるでしょう。
人によっては、引きこもらざるを得ない状況になるかもしれません。
表現は人それぞれでも、共通しているのは──
どれだけ頑張っても、エネルギーが外に出ていかないということ。
もしくは、エネルギーを注げる場所そのものが消えてしまう。
そんな現実を前にして、人は「潰れた」「終わった」「もう詰んだ」と感じがちです。
でも、実はそのときこそが、心の深いところ──潜在意識のさらに奥、集合意識のそのまた奥、“魂の核”と呼べる部分に、初めて触れられる瞬間なんです。
急に別の話題を挟みますが、脳トレカレッジのコンセプトを来年2月から
“わたし”と繋がる
世界とつながる
に変える予定で動いているのですが、その“わたし”に出会えるのは、この球根期の最中です。
ちなみに現在のキャッチフレーズはこちらです。

誰かと一緒に生きる未来のために 私は“わたし”と出会い直す
↑
これをちょっとだけ短くして範囲を拡大しました。
もちろん“わたし”という言葉を見て、何をイメージするかは受け手の自由ですし、むしろ「あえて受け取りの自由さを残した」というのが本当のとこなのですが。
一応作った本人としては“わたし”=球根期に出会うもののことを指しています。
たとえるなら、冬の寒い朝に、条件がすべて揃ったときだけ現れるダイヤモンドダストのようなもの。
冷たく静かな空気の中でしか見えない、透き通った光の粒のような“わたし”が、この時期を境に、そっと姿を現してきます。
“わたし”って何者?

球根期で出会う“わたし”は、切り花時代の「自分だと思っていたもの」でもなく、エゴフラワー期の「これが私よ!」と叫んでいたものでもありません。
どんな役割も、肩書も、理想も、全部が剥がれ落ちたあとに残る、何の色にも染まっていない“エネルギー体”みたいなものです。
球根期は、人生のどんな時期よりも地味で、孤独で、けれど、驚くほど真実味を帯びた時間。
この“わたし”と再会できたとき、今までの人生が全部一本の糸で繋がるような感覚になります。
球根フェーズの世界観|“現実と乖離したような静けさ”

球根フェーズの世界観をひとことで言うなら、「現実と少しずれたような感覚」が強い時期です。
なぜなら、現実というのは植物で言えば“地上部分”。
花や葉が見えていれば「いま、私は生きている」と実感できますが、
この時期は土の下に潜ってしまっているからです。
外の世界で何が起きているのか、自分がどこに立っているのかさえ、よくわからない。
そんな“感覚の乖離”を覚えることもあります。
心理学で言えば、これを「乖離状態」と呼ぶのかもしれません。
私は医師でも心理士でもありませんが、40代、50代でうつや適応障害、統合失調などを経験する人が増える背景には、そのうちの何割かが──**実は「病」ではなく「地中に潜っている段階」**なのではないか、と感じることがあります。
人はどうしても「上に行かなきゃ」「地上に出なきゃ」と思ってしまう。
外の空気を吸いたくて、無理に這い出そうとする。
けれど、それをやろうとすればするほど、地中の重力に引き戻されていくような感覚に襲われるのです。
それはまるで、酸素を求めて海面を目指す深海生物のようなもの。
息をしようともがけばもがくほど苦しくなり、次第に力が抜けていく。
やがて「もう何もできない」と感じながら、意識の底へと静かに沈んでいく…みたいな感覚です。
絶望の底で呼ばれている声
人はその感覚を「絶望」と呼びます。
けれど、本当のところ──あれは無意識のさらに奥にある“核”が私を呼んでいるだけなのだと思うのです。
上へ上へと伸びることをやめて、いったん“沈む”ことを選ぶ。
その沈黙のなかでしか聴こえない声がある。
「もう終わりだ」と思ったその場所で、実は“本当の私”が小さく息をしている。
その声に耳を澄ませるために、この球根期という“休魂の時間”が用意されているのかもしれません。
このフェーズの自己対話|自己対話の“沈黙期”
この球根フェーズに入ると、自己対話そのものが機能しなくなることがあります。
自己対話とは文字通り「自分との対話」ですが、その“自分”が見えなくなってしまうのが、この時期の特徴です。
つまり、対話の相手が消えてしまうのです。
たとえばこれまでなら、
「こんにちは私、今日はどんな気分?」
「ねえ私、どんな未来がほしい?」
「彼のことが好きなの?それともただ見返したいだけなの?」
そんなふうに問いかければ、どこかで“もうひとりの私”が返事をしてくれていました。
切り花フェーズでは、理想の自分との対話。
エゴフラワーフェーズでは、「私って最高!」と反響が返ってくる自己肯定的な対話。
けれど球根期では、その相手がもういない。
返事をしてくれる“自己”そのものが、いったん溶けてしまうからです。
それでも私は脳トレカレッジ(自己対話の学校)が、いちばん必要とされるのはまさにこの時期だと思うんですよね。
自己対話の相手が消えるフェーズだけど
「相手がいないのに、どうやって対話するの?」と不思議に思うかもしれません。
けれど、この問いの答えはまだ言葉になりません。
この時期の対話は、“ことば”の領域ではないからです。
いまはただ、
「言語による対話が終わるとき、
言語を超えた対話が始まる」
その転換点を迎えているだけなのだと思います。
言語が消えると、象徴が現れる

言葉の対話が沈黙すると、そのかわりにサインや象徴が届くようになります。
たとえば突然、白昼夢のように映像が浮かぶ。
問いかけても明確な言葉が返ってこない代わりに、香りや音、懐かしい記憶の断片がふっと漂ってくる。
そんな「言葉にならないメッセージ」が増えるのです。
私も最初はそれが何なのかわかりませんでした。
けれど、ユング心理学を学んで腑に落ちました。
ユングはこれを**「象徴」**と呼び、そしてこう言ったのです。
「人生そのものが、あなたに語りかけている。」
……もうね、ユング、100年前に全部先回りしてやがったよ(笑)
これ私が「現実(うつつ・みのる)」って呼んでた、あいつのことじゃないか!!!
どうでもいいけれど、私の公式ブログもハッキングの時に消えちゃったんだよな。
一部の記事をアメブロに転記してたのが中途半端に残ってるけど、これどうしよう。
割といいこと書いてあるじゃないか。
光の届かない場所で、別の感覚が育つ
言葉が届かなくなると、人は不安になります。
「何も感じない」「何も考えられない」──そう感じるかもしれません。
でもそれは、本当に“何もない”のではなくて、別の感覚が育ちはじめているだけ。
それはまるで、光の届かない深海で暮らす魚が、視力を失う代わりに皮膚感覚を研ぎ澄ますようなもの。
この時期、あなたの感性は新しい形で開かれていきます。
目に見えない世界を“感じる力”が、静かに、確実に育っているのです。
このあと「芽吹きフェーズ」に入ると、再び“言葉”が戻ってきます。
けれど、それはもう以前の言葉ではなく、魂の奥から届く言葉になります。
芽吹き前夜──季節に委ねる勇気
長く「無言の世界」に身を置くと、やがてふとした瞬間に、自分の内側から小さな光が差すのを感じるようになります。
それは、頭で考えた“気づき”ではなく、どこからともなく届く、微かなメッセージ。
言葉ではなく、香りや映像、記憶の断片のようなものとして。
不思議なことに、それらが一本の線のようにつながり始めるのです。
「これが私の人生の地図だったのかもしれない」
そんな感覚が生まれてくる頃──それが、球根期の終盤=芽吹きのはじまりです。
次のフェーズへ進むために必要なのは、気合でも、努力でも、情熱でもありません。
必要なのは、ただひとつ。
季節に身を委ねること。
春が来たら自然に芽が出るように、咲けるタイミングが訪れたら、“咲く心づもりだけ”をしておくこと。
それが、この時期にできる最も大切な準備です。
この頃になるともう、エゴフラワーのように「世界に咲き誇る!」という熱はなく、切り花フェーズのように「世界が私を愛してくれる」という前提も薄れていきます。
代わりに生まれるのは、自分の球根の中に蓄えてきたものを、静かに世界へ返していく感覚。
それは義務ではなく、贈り物のようなもの。
「生きること」そのものがギフトになるのです。
光に慣れるためのリハビリ
ただし、長い間“地中”にいた人ほど、急に地上の光に出るとまぶしすぎて苦しくなるものです。
- 光が痛い。
- 人の声がうるさい。
- 刺激が強すぎて、世界に馴染めない。
そんな“地上部トラウマ”を抱える人も少なくありません。
でも、それは自然なこと。
深海にいた魚が、いきなり太陽の下に出て戸惑うのと同じです。
少しずつ光に慣れていけばいい。
その「慣らしの期間」こそが、芽吹きフェーズへ向かう最後の大切なステップなのです。
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